ほら
ここにも運命が近づいてる
あの日、僕は布施さんに失恋した。
実習生だった枚方にうそを教えたことがばれた。
謝らなかった。
そんなこと、僕のプライドが許さない。
布施さんに、どうして枚方なのかと聞いた。
けれど答えてくれなかった。
「お前の気持ちには答えられない。」
そう言っただけだった。
会社を辞めるなんて出来なかった。
少しでも布施さんのそばにいたかった。
どうして布施さんは枚方なんだろう。
どうして僕ではいけないのだろう。
僕には分からないことだらけだった。
ただ一つ、分かっていることは。
僕が失恋したということだけ。
それだけ。
もういい子ぶって「僕」なんて言う必要もない。
布施さんの前だけで使っていただけ。
布施さんの前でだけ、いい子ぶってた。
それも、もう終わり。
本当の私は、他人にとても冷たいから。
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あれからもう2ヶ月ほど経っている。2ヶ月間、何をしたのかあまり覚えていない。クビになっていないところをみると、ちゃんと仕事はしていたのだろう。まさかこれほどまでに失恋の痛みを味わうとは思わなかった。自分で思ってる以上に、布施さんのことが好きだったようだ。
あまり顔の表情を作るのが上手くない私は、いつも無表情だったから、誰かに何かを気付かれるということはなかった。気付かれずにホッとした反面、気付いて欲しかったというのもあった。
今日、仕事で行くところは、最近売上が伸びてきているところで、初めて行く会社だった。数日前に電話で約束を取り付けていたため、名前を言うとすぐに小分けされて尚且つ声が漏れないようになっているブースの一つへと通された。出されたお茶の湯気を見ていたが、先方にすぐに話が出来るように、鞄の中から資料を取り出して机の上に並べた。
それでも時間が余ってお茶を飲んでいると、斜め後ろにある入り口から人が入ってくる同時に、声が聞こえてきた。
「すみません。お待たせしました。」
すぐに立ち上がって、胸ポケットから名刺を相手に渡そうとして驚いた。確か今日話をする相手は、この会社の技術課のチーフのはずだ。
「大丈夫ですか?」
相手の声で、名刺を持ったまま固まっていた。
「いえ、あの…すみません。失礼ですが、思っていたよりも若かったもので…。」
「あぁ、初めて会う方は、みなさんそう言うので、気にしてないですよ。挨拶が送れました。私は技術課の北浜一之(きたはまかずゆき)と言います。」
先に名前を名乗られて、名刺を渡されてしまった。
「ありがとうございます。私は京橋亨(きょうばしとおる)です。よろしくお願いします。」
相手が座ったのを確認してから、私も椅子に腰掛けた。チラッと相手の顔を盗み見ると、先ほどではあまり分からなかった整った顔をしている。私より若いはずなのにすごく落ち着いてて、大人の男という感じだ。
そう…まるで布施さんみたいな……。
「さっそくお話しても宜しいですか?」
布施さんのことを掻き消すように、仕事の話を相手に持ちかけた。
「そうですね。」
滞りなく話しは進んだ。話してみると相手はチーフと言ってもおかしくないほど出来る人だと思った。私としてもあまり何度も説明せずにすんだので、30分程度で話は終わった。
「また、後日お伺いします。」
立ち上がってお辞儀をすると、急に腕を引っ張られた。慌てて顔を上げると、かぶさるように唇に柔らかいものが触れた。すぐに離れてしまったけれど、何をされたのかすぐに分かった。
「今晩、飲みに行きませんか?」
さっきまでの大人の男の顔ではなくて、そこには表情が緩やかになった私よりも年下の青年だった。
「ご遠慮致します。失礼します。」
私は何もなかったようにブースから出て行った。エレベーターに向かって廊下を歩いていると、後ろから走って来る音がして立ち止まった。
「待ってください!京橋さん、キスしても何もなかったように振舞うので、我を忘れていましたよ。これ、私のプライベートの携帯番号です。もし良かったら、いつでも電話してください。」
9桁の数字が書かれた小さな紙切れを、北浜は私の手の中に押し込めた。その場で捨てても良かったのだが、北浜があまりにも嬉しそうに笑ったのでとりあえず胸ポケットにしまった。
私は何も言わずに、そのまま北浜に背を向けてエレベーターに向かった。もう追いかけては来なかった。
電話なんてするはずがないのに…。期待するだけ無駄なことだ。
最近行ってなかった行き着けのバーに顔を出した。
「おや?亨、久しぶりだね。」
私がカウンターに座ると、馴染みのマスターが私の好きなカクテルをさっと差し出してくれた。
「ありがとう。私の好み、まだ覚えていたんだ?」
「もう何年もここに来てるのに、忘れるわけないだろう?」
「ふふふ…。マスターは相変わらずだね。」
マスターは他の客に呼ばれて忙しそうだったので、私は一人でゆっくりとカクテルを飲みながら布施さんのことを考えていた。
今ごろ枚方は一緒にいるのだろうか。
考えるのをやめようと思うのに、ついつい一人になると考えてしまう。こんなことなら、北浜の誘いを断らなければ良かった。
今更遅いな。
カタッと音がして、カウンターの私が座っている席の隣りに、誰かが座った。
「こんばんわ、京橋さん。」
「あ、あぁ…北浜…さんですよね。」
今まさに考えていた人物の一人だったために、私は柄にもなく変な顔をしていただろう。
「この場では会社は関係ないですよ。俺の方が年下なんですから、呼び捨てにしてください。俺も亨さんって呼ばせて貰います。」
北浜の一人称も『私』から『俺』に変わっている。
「そうだね。じゃあ…一之…と読んでもいいのかな?」
「はい!あの…ご一緒させてもらっていいですか?」
「クスクス…うん。いいよ。私も一人で飲んでいたから。それより、どうして一之がここにいるのかな?」
「実は何度か来たことがあるんですよ。だから、亨さんのことも知ってたんです。」
一之が頼んでいたカクテルがテーブルの上に置かれて、お互いのグラスを合わせてカチンと鳴らした。
「今日会ったときに言ってくれれば良かったのに。」
「仕事と混合にしたら亨さんが嫌がるかと思ったので。最後はついつい誘ってしまいましたけど。」
「そうだね。私は仕事とプライベートを一緒にするタイプじゃないから。さっき年下だと言っていたけど、いくつなのかな?」
「24です。亨さんは26ですよね?マスターに聞いた事があるから。」
「ふふ…私の歳を聞いてもおもしろくないよ。一之は私よりも2つ下なんだね。24歳でチーフなんて、君は優秀なんだ。」
グラスに半分ほど残っていたカクテルを一気に飲み干して、マスターにおかわりを頼んだ。
一之と話すのはなかなかおもしろかった。私より2つ年下ということで話が合わないのではと思ったが、心配無用だったようだ。
会話が進むにつれて、私も一之もグラスが空になる回数が増えていった。
「亨さん。もうそろそろ飲むの止めたほうがいいですよ?」
「…あぁ。」
自分でも分かっていた。このまま立つと、きっとよろめく。
マスターにお勘定をしてもらい、軽く支えられながら店の外に出た。
「すまない。タクシーでも呼ぶから。」
「俺が呼んできます。」
私を店の入り口の壁に凭れ掛けさせて、一之は道路に近づいてタクシーを一台止めて戻ってきたl。
「亨さん。家どこですか?」
「旭丘。」
「マンションですか?」
「そう。6階…。」
「送っていきますので!」
別に大丈夫…そう思ったけれど、思ったよりも酔いが回っている状態だったので、お言葉に甘えさせてもらった。
タクシーで私のマンションまで行き、そっからはまた支えられながら部屋まで移動した。
リビングにあるソファにもたれて、息苦しかったネクタイを緩めた。一之はコップに水を入れて渡してくれた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。俺、亨さんのこと、何だかほっとけないんですよ。」
それは、どうゆう意味で…?
ただ、仲良くなったから?
それとも好意をもっているから?
かなり酔っていたんだろう。一之に抱きついて胸に顔を乗せて、私は口走ってしまった。
「ほっとけないなら、今晩ここにいてくれない?寂しい。私を抱きしめて寝て欲しい。」