ビジネスライク(9)
8日目…あれから3日後。
−枚方 泉−
3日前の朝まで布施さんと一緒にいたなんて実感がなかった。ただ、実習も終わり、学校に報告しに行って、校内で会った友達とたわいもない話をして、家に帰る。そんな風に今日も単純に一日が過ぎると思っていた。
家に帰り玄関で靴を脱いでいると、キッチンから母さんが顔を出した。
「お昼あるー?」
午前中に用事を済まして家に帰ってきたため、まだ昼飯を食べていなかったのだ。
「お帰りー。お昼なら作ってテーブルの上に置いといたわよ。そうそう、さっき電話があったわよ?」
「は?誰から?」
今時携帯があるのに家にかけてくるなんて、めずらしい。
「実習先であんたがお世話になった布施さんって人から。何だか忘れ物があるみたいだから、会社まで取りに来て欲しいって。今日は一日会社にいてるって言ってたわよー。」
視界がぐるんと回ったような気がした。
もう一度、布施さんに会わなければいけない。会ってどうゆう態度をとればいいんだ?何もなかったかのように振舞うなんて、俺はそんなに器用じゃない。
昼飯のことも忘れて、脱いだばかりの靴を履いて、会社に向かった。けれど会社に近づくにつれ、少しずつ歩幅が小さくなる。自分が緊張しているのが、他人にまで分かりそうなほど心臓がドキドキしている。
会社に着いて布施さんのいる部署に行く途中に、実習の時に顔見知りになった人に会い、忘れ物をしたらしくて布施さんに呼ばれたというと、以前京橋さんと話した小会議室に通された。ほんの数十分の待ち時間が、長いようにも短いようにも感じた。
ゆっくりと会議室の扉が開き、そこに目を移すと布施さんが入ってくるところだった。
少し疲れているように見える。仕事が忙しいのかな。
小さな会議室だがそれなりにイスがあるのに、布施さんは折れの隣りに座った。座ったっきり布施さんは口を開こうとしない。緊張で息が出来なくて、窒息しそうだった。この沈黙をやぶるかのように、俺は布施さんに話し掛けた。
「あの……忘れ物って何ですか?」
「どうして帰ったんだ?」
「え…っ?」
「あの日、どうして帰ってしまったんだ?」
険しかった布施さんの顔が、少し悲しそうになった。そんな布施さんを見たくなくて、思わず顔を背けてしまう。
「どうしてって…、あのことは忘れてください。俺も忘れるんで。それより忘れ物は?それだけ受け取ったら帰りたいんですけど…。」
うそだ。帰りたくない。布施さんと少しでも一緒にいたいと思う気持ちがある。けど俺は諦めないといけないから…。
「忘れもなんてないさ。俺が呼んだだけだからな。」
「なっっ…俺をからかって、楽しいんですか?」
ショックだった。忘れ物なんて取りに行かなければ良かったんだ。行かなければ、惨めな思いをすることなんてなかった。自分が恥ずかしい。諦めようなんて言って、全然諦めきれてなかったんだ。
「別にからかおうなんて思ってない。」
「じゃあ、無意識なんですね。用がないみたいなので、俺はこれで失礼します。」
悔しくて涙が出そうになるのをこらえて、布施さんの横を通り過ぎようとした。
「イタッ……。」
すごい力で腕を捕まれ、そのまま引っ張られて布施さんの胸元に倒れこんだ。
「何するんですか!?やめてください。俺に期待を持たせるようなことしないでください。俺を一体なんだと思ってるんですか?」
「期待するも何もないだろう。」
布施さんの胸を両手で押し返して抵抗する。
「ひどすぎます。俺は布施さんのこと好きなんですよ?でも布施さんには京橋さんがいるじゃないですか!それなのにっ……。」
「ちょっと待て。もしかして3日前の事覚えていないのか?」
へ?3日前の事?
「あの日は布施さんと飲んでて、そのまま酔いつぶれて気がついたら朝だったんですよ。ベットから降りたら腰は痛いし、裸だし…その……。」
布施さんんが疲れたように溜息をついた。
「酔ったときのこと、さっぱりと忘れているみたいだな…。思い出せないか?…いずみ……。」
いずみ…そう呼ばれた瞬間、心臓がドクンとなった。
なんだ?今のは?
動揺していると、あの日の光景が頭に浮かんできた。
『京橋とはつきあっていない。』
『好きだよ。』
『泉が好きだから。』
『秋久って呼んでくれないか?』
「あき、ひさ……?」
自然と声が出た。
「思い出したか?」
「……うん。」
うわー。急にあの時のことを一気に思い出して、恥ずかしすぎるんだけど!俺…俺…。
恥ずかしさのあまり真っ赤になっていると、布施さ…秋久がぎゅうと抱きしめて、俺の顎を持ち上げて熱烈なキスをしてきた。
「ん―――。っん、……んん。」
唇が離れる頃には、息が絶え絶えになるくらい長いキスだった。
「泉、もう忘れるなよ。」
「…うん。」
会社というのは分かっていても、俺は今、喜びを噛み締めるのでいっぱいだった。